愛と生きる意味

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掌編小説『ドライフラワー・呪詛』(2022-8-14)

女との関係が終わったから優里を聴いている。なるほどいい曲だ。この曲を作った人は本当の意味で絶望したことはないだろうし、断絶とか、誠実さとかについて深く考えたこともないのだろう。本当に何もかもが薄っぺらくて良い。拗らせたマゾヒストの俺らはいつも自分を痛めつけるような曲ばかり聴いてオナニーをしているけど、音楽とは本来そういうもののためにあるのだろう。音楽とは、絶望とか痛みとかから逃れ逃れ踊りあったりカラオケで熱唱したり、そういうもののためにあるのだ。断じて自分の絶望を叫んでひとりぼっちに世界と相対するためにあるのでは無い。結局俺は自分で自分を壊し続けるあなたの自傷行為を止めることはできなかったし、あなたが自分の信仰までもこんなにも簡単に破壊するなんて夢想だにもしていなかった。残ったのは俺一人だ。そこらへんの有象無象で本当の意味で他人のことを考えるなんてことをしてこなかった俺は、ある日突然あなたに選ばれ、世界に対して誠実であることを強要され、天啓を受けた俺は、まるで子羊のようにあなたを盲信していた。それが出来ないと知りながらあなたの全部を理解したかったし、あなたとなら色々な障害はあれどお互い決定的な誠実さを失うことなくやっていけるものだと思っていた。一人の人間として真に俺が尊重できるのはあなただけだと思っていたし、俺を真に尊重してくれるのもあなただけだと思っていた。俺は長い間あなたと話しながら、俺があなたを好きな理由をだんだん理解していったし、あなたが俺のことを好きな理由もだんだん理解していった。あなたの中途半端さに対する憎しみはときどき俺をぎょっとさせることはあったが、そういうあなたの不器用さだって好きだった。あなたがやけに自信をのぞかせていた声は正直そこまでタイプではなかったが、その声があなたのものである、あなたの思想をのせる旋律であるというだけで好きだった。顔は言わずもがなだ。あなたは自分の容姿を恐ろしく卑下するけど俺はあなた以上に美しい容姿を持つ人を知らなかった。あなたの何もかもが好きだった。たった一度のほころびだけで全てを捨て去ったあなたを俺は未だに信じられない。あまりに信じられない。あなたが俺に真に失望した時、俺があなたに真に失望した時が、関係の終わりだみたいな話をしたのを覚えてる?俺はあの時あの言葉を放ちながら、ああそうはいってもそんな時(後者みたいな時)は一生来ないんだろうなと思っていた。あなたの態度にどこまでも無限の信頼を抱いていたからだ。それは過大な期待だと、これを読んでいるあなた以外の誰かは思うかもしれないが、あなただけはこの期待は関係性における当然の帰結だって分かってたはずだ。あなたの俺への口説き文句はまさにそうだったろう?俺はあなたのことが好きだし、そもそも俺は打算的に考えてもそこまで悪い彼氏では無いはずだ。容姿はすごく良いとは言い難いかもしれないがどう見積もっても悪くはないはずだ。正直俺ほどの学歴がある人間だってそういない。別にモテないわけでもない。なぜあなたは自傷を働いた?とにかくあなたは何もかもを辞めてしまった。降りてしまった。辞めたあなたのことをもう好きになれないのは俺が男性として貫目が足りていないからだろうか?リピート再生で流しっぱなしにしてるドライフラワーが心の表面をさらっていく。嘘を吐き通せ、あるいは本当のことしか言うな。あなたの言葉だったはずだ。あなたがこのゲームから降りて、強制的に舞台に上げられた俺だけが一人立ちすくんでいる。なんて孤独だろうか。あなたはこれをいつも感じていたのか。別に俺はこれを書いているし、あなたがこれを読んでいると言うことはこれを投稿したと言うことだけど、そんな不誠実な真似をしているのに、そういう視線を体得してしまったというだけでこの凍えが身を襲うのだ。なぜ一人にした?一人にするなら最初から俺を舞台に誘なわないでくれよ。ここはおぞましい寒さでおぞましい針地獄だ。あなたと一緒だからやれたのに、あなた無しでは世界でやっていけないようにさせられたのに、俺はこのクソみたいなゲームを一人でやる羽目になってしまった。ドライフラワーみたいに簡単に色褪せてくれればいいのに、むしろあなたの美しい顔や声や仕草の記憶はこれから色褪せていくばかりなのだろうに、このゲームからは降りれず、辛さだけが枯れ残るということか。俺が最後にあなたに吐く言葉はただの呪詛だ。ただただ呪詛だ。本当にあなたのことが好きだった。好きだった。さようなら。

disappearing(2022-7-7)

電車に乗っていたら、街がビュンビュン流れて行ってそれがとても綺麗で、終点なんてないまま景色が続いていくような気がしていました。貴方とはどんどんはなれていって、私はすでに、色づきが変わり続ける景色からしたらまるで異邦人のような気分でいました。ああ、これが希望なのか。私は直感しました。流れていく時間のなかで、貴方に背負われていくこと、これこそが希望なのでしょう。今こそ私は確信を持って言えます。子供の時代は終わったのだ、と。途中の停車場で私は降りて、そこがどこかも知れないままに運賃を払いました。美しい青空とうららかな陽気は、今が夏なのか春なのかも分からなくさせます。噴水に腰掛け、水面に指をぽちゃんと浸け、真に正しい季節の到来を祈り、私は静かに目を閉じました。

希死念慮(2022-6-2)

俺は確かに死にたいはずで、今のも一日で何回目かの希死念慮だ。朝起きてスマホをぽちぽち弄りながら突然死にたくなる朝食中。大学に行って授業を受けたり友人と(友人と呼べるほど仲が良いのかには疑問符がつくが)話している最中にも、通奏低音のように希死念慮が伏流し続ける。今の希死念慮は家に帰ってきた後の死にたいだ。直接の孤独感と結びついて、抑制的なR&Bフォークソングのように希死念慮が身を苛んでくる。けれど俺は別に、死にたいと言うほどには死にたくない。朝の死にたいは寝不足と体調の悪さから来るもろもろの不快感を「死にたい」と表現しただけのような気もして来るし、昼間の死にたいは何となくの疎外感から来るもの、夜の死にたいは上に書いたとおりただの孤独感と寂寥感を雑に処理しているだけとも言える。

これが本当に希死念慮と呼べるものなのか分からない。純度100%の死にたいではないことは確かだ。一つ言えるのは、いちど死にたいという感情の回路が開けると、脱臼を何度も繰り返す関節のように、ぴたりと寄り添った希死念慮がなにかの拍子に顔を出してくるということなのだろう。いや、何でもかんでもを「死にたい」に還元する雑さ、ずるさを覚えてしまうということなのかもしれない。知恵の実を食べたアダムとイブはエデンの園から追放された。さしずめ俺は希死念慮という名の悪知恵の実を食った大馬鹿者だろう。少なくとも今の俺の「死にたい」は偽物の「死にたい」だ。

別れる(2022-5-22)

 上京したり転勤したりする人間にとっての別れの季節は3月や4月だが、俺のように郊外で生まれ育った人間や、東京で生まれ育った人たちにとっては5月か6月が別れの季節だと思う。昔付き合っていた人が似たようなことを言っていた。「6月はライフステージがかわって少し落ち着いたくらいの時期で、自分や相手のことを少し見つめ直すことが多くなる。」ということらしい。俺は東京圏から出ることなく育ってきたから、進学や就職で仲間と離れ離れになるのは悲しいけれど、たいていの友人は東京圏から離れないままで、呼び出せば来るし、呼び出されればすぐに会いに行ける。ファスト風土で根無草に生きる俺たちはそういう理由で、ある種の人たちより別れを経験することが少ないのかもしれないし、もっと言えば、別れの時期を自分で決めることができる。

 それはそうとして、別れという圧倒的な現実を前にした人間の反応は二つに大別される。別に完全に二つに分かれているわけじゃなくて、俺も含め大抵の人間はその二つのミックスだ。一つ目は、人間関係を全て自分で制御しようとする姿勢だ。例えば人間関係を突然ぶっち切る癖がある人間はおそらくそういう傾向が強いのだろう。こう言った人間がなにを制御したいかというと別れそのものだ。要は他人に裏切られる前に自分で関係を断とうということで、別れという「現象」がもたらす感情コストに耐えられず、「別れ」を行為に還元しようとしている、とも言える。また、他者を信用せず不必要に自分に立ち入らせない姿勢も前者側に入る。例えばスパイは自分のパーソナルデータを他者に開示しようとしない(開示してもそれは往々にして偽物の情報だ)。これはどういうことかというと、自分の切る手札を可能な限り減らし、別れという現象がもたらす諸々のコストを制御しようとする行為なわけだ。スパイは職業としてそれをやっているが、俺たちも大なり小なり似たようなことをやっている。たいていの人間は、本当に信用した人間(恋人、親友、それに準ずる深い関係の人)にしかパーソナルな話をしない。それは自分と合わないような人間や深く知らない人間に同じことをしたら社会的に面倒だからということだけじゃなく、必要以上の数の人間をそういった関係に引き摺り込むことへの感情コストを恐れるからだ。俺たちが感情に割り当てられるリソースというのはある程度決まっていて、愛と信用を大盤振る舞いしていたら早晩精神的に行き詰まってしまうだろう。いずれにせよ俺たちは別れを恐れるからこそ他者に一線引くといった側面がある。

 そろそろ二つ目の話をしよう。俺たちはまた、別れを恐れながらも熱情や激情に身を任せ、愛し合ったり、「理解」し合ったり、衝突したりする。説明するまでもなく、別れの相が遠く遠くの地平線(あるいはそれはすぐ近くに立ち登るピリオドかもしれないが)に立ち現れるからこそ、俺らは「いま、ここ」に熱情を捧げあうことができる。あの愛してるは嘘だったのね。いや本当だったさ、少なくともあの時は。一貫している必要なんてないんだ、僕たちはいつも一瞬に生きているんだから……ということだ。こういった態度はともすれば不誠実ととられかねないし、実際に不誠実な態度だが、俺たちはある面においていつもこうして煌めく流星となり続けるのだ。そうでなければ俺たちに生きている意味なんてあるのだろうか?釈迦は無限の輪廻転生を最大の苦痛とおいたが、俺たちは限りある人生を不完全燃焼で生きている。不完全に煌めきながら、無為に地面に激突する運命を予感しながら、生きていくのだ。

 本番の来ない文化祭準備の退屈さが容易に想像つくように、別れの相を意識しない関係性はいつしか緊張感を失い膿んでいくだろう。ただ文化祭と別れが違うのは、文化祭の開催日程と違って別れの日にちは俺たちの制御の手にないことだ。俺たちにできるのはただ相手と自分を信じ、少しでも別れを美しい記憶で彩れるよう、日々を大切に生きていくことでしかない。俺がこういうベタで、ともすれば気持ち悪いほどの結句を導こうとしているのは自分でも信じられないが、信じる強さというものは別れの悲しさから生まれたものなのかもしれない。

手紙(中途で放棄したメモ)(2022-4-3)

一切は過ぎ去っていくという言葉はどうも日本人の精神性に深く刻み込まれた言葉みたいだ。俺も多分に例外ではなく、何かにつけてただ一切は過ぎ去っていく諦念を詩に落とし込もうとしているんだけど、やはり詩を書くのはあの日以来難しいようで、自分の詩的実存が生のまま反映された醜悪なキメラしか生まれない。またこうも言える。俺たちは、ある面——それは世界の一面としてのある面だ、あるいはそれも一体化した弊害による自我の肥大化が産み出した錯覚なのかもしれないが——と一体化しすぎると最終的な帰結として破滅を招くということだ。もうすこし誤解を厭わずに平易な言葉を使うと、世界に対して誠実であり続けようとする態度のことだとも言える。俺たちは常に裏切らざるを得ない。それは痛みに対して声を上げることで、痛みに対して押し黙ることで、痛みを受け入れることだ。あるいは俺たちは常に裏切っていないとも言える。それは尚のこと、痛みに対して声を上げることで、痛みに対して押し黙ることで、痛みを受け入れることだ。つまり俺たちは、不義理によって誠実さを目指し、高潔に笑ってみせることによって誠実さを目指しているということだ。そうでしょう?俺の思ってきたこと、目線、生きてきたことがもっとあなたと同じで余人向きのものではないとするのなら、俺の言っていることは2人にとって一面の真実を映し出しているものであるはずだ。俺はいつも孤独を恐れていた。その孤独とは字義通りの意味ではなく、俺は別に人間関係の孤独をみっともなく恐れていたわけではないし、本質的な孤独すらも真の意味で恐れていたわけではないのだ。その孤独とはもっとある種の意味での「無化」だった。俺の命を酷く得体の知れない地獄が飲み込み、身包み剥がされて、俺一人。何よりも恐いのは奔流に全てを白日に晒されることでもなく、そのとき俺が俺のままではいられないんじゃないか、俺とは別物の何かになっているんじゃないかという恐懼だった。その時俺は襟を正して真正面からあなたと向き合えるだろうか?俺は常に痛みに対して誠実であり続けられるだろうか?悲しみは尽きず、疑問は尽きない。過ぎゆくあなたにせめて手紙をしたためようとしたのに、言葉はとっ散らかって何も言えないまま中途で終わってしまった。これは何事も真実という言葉に換言してしまう俺の悪癖だが、歩み寄るあなたに何も言えなかったということだけが真実なのかもしれない。

4/1(2022-4-2)

書かれた文字は所詮イデアの影でしかなく、言葉を知った僕らはもはや何者をも掴むことができないというのは文字禍にも出てくるようなありがちなテーゼで、フリッパーズギター時代の小沢健二はそこから一歩踏み込んで、俺らは俺らである以上一生わかり合うことはできないと歌ったが、これもありがちなテーゼだ。まあ考えてみれば俺ら一人一人は感覚器のかたちからして違うんだから当たり前の話で、ただの同語反復でしかない。それでも俺らは空漠たる世界に自分が変な顔をしてただ居ることに耐えられないみたいで、偽物の居場所を探して偽物の友達を探して偽物の愛を探すのだ。世界に愛が無ければどうなっていたかという問いは昔からあるが、自明の公理に不在を問うても意味がないだろう。谷川俊太郎のあまりにも有名な詩を引用するまでもなく、1+1が2であるように、俺らはいつもひかれ合っている。万有引力には時には愛だったり、友情だったり、信仰だったりの名前がつけられていて、俺の頭上ではいつも色とりどりの名前のついた星たちがぶつかりあったり複雑な楕円軌道を描いて周回したりしている。あの通りの夜桜は今日も綺麗だった。ここ一年のうちに愛しあって罵りあって殺しあった俺らの火花が一つ一つの花弁になっているのだろうかと思うのは、余りにナイーブがすぎるだろうか。終わりを知りながら手を伸ばすその眩しさだけに真実は宿る。少しの間でもあなたを人生の道行きに連れ立って歩いてみるのも良いのかもしれない。

敬虔な痛みだけを抱いて(2022-4-27)

光が向こうで瞬いているから俺はのそりと起き出した。草原では常に天敵に目を配っていないといけなくて、あれはおおかたキラリと反射する捕食者の水晶体だろう。痛みはいつもよそよそしく俺にのしかかってきた。踏みしめた地面の痛み、針山のように煌めく草々に千々に破れる柔な皮膚、目の前で俺の代わりに食われた友。その全てを背負って俺は歩いて行かなきゃいけない。夜はいつも安心する。俺が死んでもその痛みを見るものがいないだろうから。捕食者の奥深くには剥き出しの生存本能だけがあり、俺は瞳の奥の躊躇を覗くまでもなく死んでいくことができる。人間はさしずめ墜落するイカロスのようだ。光に向かって落ちていく。俺は救いに近づいていると錯覚する。痛みはどんどん増していく。しまいに俺は光に焼きつくされてしまう。あるいは光そのものとなる。光は幻惑で、昼は破滅だ。夜は救いで、俺はいつも敬虔さだけを足跡に残していた。

 

痛みは常に俺につきまとう。俺はしっかりと足を踏みしめて空を見上げている。いつか俺には羽根が授けられて、広い青のなかでさみしさだけを感じられるのだろうか。