足立健

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希死念慮(2022-6-2)

俺は確かに死にたいはずで、今のも一日で何回目かの希死念慮だ。朝起きてスマホをぽちぽち弄りながら突然死にたくなる朝食中。大学に行って授業を受けたり友人と(友人と呼べるほど仲が良いのかには疑問符がつくが)話している最中にも、通奏低音のように希死念慮が伏流し続ける。今の希死念慮は家に帰ってきた後の死にたいだ。直接の孤独感と結びついて、抑制的なR&Bフォークソングのように希死念慮が身を苛んでくる。けれど俺は別に、死にたいと言うほどには死にたくない。朝の死にたいは寝不足と体調の悪さから来るもろもろの不快感を「死にたい」と表現しただけのような気もして来るし、昼間の死にたいは何となくの疎外感から来るもの、夜の死にたいは上に書いたとおりただの孤独感と寂寥感を雑に処理しているだけとも言える。

これが本当に希死念慮と呼べるものなのか分からない。純度100%の死にたいではないことは確かだ。一つ言えるのは、いちど死にたいという感情の回路が開けると、脱臼を何度も繰り返す関節のように、ぴたりと寄り添った希死念慮がなにかの拍子に顔を出してくるということなのだろう。いや、何でもかんでもを「死にたい」に還元する雑さ、ずるさを覚えてしまうということなのかもしれない。知恵の実を食べたアダムとイブはエデンの園から追放された。さしずめ俺は希死念慮という名の悪知恵の実を食った大馬鹿者だろう。少なくとも今の俺の「死にたい」は偽物の「死にたい」だ。