足立健

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別れる(2022-5-22)

 上京したり転勤したりする人間にとっての別れの季節は3月や4月だが、俺のように郊外で生まれ育った人間や、東京で生まれ育った人たちにとっては5月か6月が別れの季節だと思う。昔付き合っていた人が似たようなことを言っていた。「6月はライフステージがかわって少し落ち着いたくらいの時期で、自分や相手のことを少し見つめ直すことが多くなる。」ということらしい。俺は東京圏から出ることなく育ってきたから、進学や就職で仲間と離れ離れになるのは悲しいけれど、たいていの友人は東京圏から離れないままで、呼び出せば来るし、呼び出されればすぐに会いに行ける。ファスト風土で根無草に生きる俺たちはそういう理由で、ある種の人たちより別れを経験することが少ないのかもしれないし、もっと言えば、別れの時期を自分で決めることができる。

 それはそうとして、別れという圧倒的な現実を前にした人間の反応は二つに大別される。別に完全に二つに分かれているわけじゃなくて、俺も含め大抵の人間はその二つのミックスだ。一つ目は、人間関係を全て自分で制御しようとする姿勢だ。例えば人間関係を突然ぶっち切る癖がある人間はおそらくそういう傾向が強いのだろう。こう言った人間がなにを制御したいかというと別れそのものだ。要は他人に裏切られる前に自分で関係を断とうということで、別れという「現象」がもたらす感情コストに耐えられず、「別れ」を行為に還元しようとしている、とも言える。また、他者を信用せず不必要に自分に立ち入らせない姿勢も前者側に入る。例えばスパイは自分のパーソナルデータを他者に開示しようとしない(開示してもそれは往々にして偽物の情報だ)。これはどういうことかというと、自分の切る手札を可能な限り減らし、別れという現象がもたらす諸々のコストを制御しようとする行為なわけだ。スパイは職業としてそれをやっているが、俺たちも大なり小なり似たようなことをやっている。たいていの人間は、本当に信用した人間(恋人、親友、それに準ずる深い関係の人)にしかパーソナルな話をしない。それは自分と合わないような人間や深く知らない人間に同じことをしたら社会的に面倒だからということだけじゃなく、必要以上の数の人間をそういった関係に引き摺り込むことへの感情コストを恐れるからだ。俺たちが感情に割り当てられるリソースというのはある程度決まっていて、愛と信用を大盤振る舞いしていたら早晩精神的に行き詰まってしまうだろう。いずれにせよ俺たちは別れを恐れるからこそ他者に一線引くといった側面がある。

 そろそろ二つ目の話をしよう。俺たちはまた、別れを恐れながらも熱情や激情に身を任せ、愛し合ったり、「理解」し合ったり、衝突したりする。説明するまでもなく、別れの相が遠く遠くの地平線(あるいはそれはすぐ近くに立ち登るピリオドかもしれないが)に立ち現れるからこそ、俺らは「いま、ここ」に熱情を捧げあうことができる。あの愛してるは嘘だったのね。いや本当だったさ、少なくともあの時は。一貫している必要なんてないんだ、僕たちはいつも一瞬に生きているんだから……ということだ。こういった態度はともすれば不誠実ととられかねないし、実際に不誠実な態度だが、俺たちはある面においていつもこうして煌めく流星となり続けるのだ。そうでなければ俺たちに生きている意味なんてあるのだろうか?釈迦は無限の輪廻転生を最大の苦痛とおいたが、俺たちは限りある人生を不完全燃焼で生きている。不完全に煌めきながら、無為に地面に激突する運命を予感しながら、生きていくのだ。

 本番の来ない文化祭準備の退屈さが容易に想像つくように、別れの相を意識しない関係性はいつしか緊張感を失い膿んでいくだろう。ただ文化祭と別れが違うのは、文化祭の開催日程と違って別れの日にちは俺たちの制御の手にないことだ。俺たちにできるのはただ相手と自分を信じ、少しでも別れを美しい記憶で彩れるよう、日々を大切に生きていくことでしかない。俺がこういうベタで、ともすれば気持ち悪いほどの結句を導こうとしているのは自分でも信じられないが、信じる強さというものは別れの悲しさから生まれたものなのかもしれない。