愛と生きる意味

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手紙(中途で放棄したメモ)(2022-4-3)

一切は過ぎ去っていくという言葉はどうも日本人の精神性に深く刻み込まれた言葉みたいだ。俺も多分に例外ではなく、何かにつけてただ一切は過ぎ去っていく諦念を詩に落とし込もうとしているんだけど、やはり詩を書くのはあの日以来難しいようで、自分の詩的実存が生のまま反映された醜悪なキメラしか生まれない。またこうも言える。俺たちは、ある面——それは世界の一面としてのある面だ、あるいはそれも一体化した弊害による自我の肥大化が産み出した錯覚なのかもしれないが——と一体化しすぎると最終的な帰結として破滅を招くということだ。もうすこし誤解を厭わずに平易な言葉を使うと、世界に対して誠実であり続けようとする態度のことだとも言える。俺たちは常に裏切らざるを得ない。それは痛みに対して声を上げることで、痛みに対して押し黙ることで、痛みを受け入れることだ。あるいは俺たちは常に裏切っていないとも言える。それは尚のこと、痛みに対して声を上げることで、痛みに対して押し黙ることで、痛みを受け入れることだ。つまり俺たちは、不義理によって誠実さを目指し、高潔に笑ってみせることによって誠実さを目指しているということだ。そうでしょう?俺の思ってきたこと、目線、生きてきたことがもっとあなたと同じで余人向きのものではないとするのなら、俺の言っていることは2人にとって一面の真実を映し出しているものであるはずだ。俺はいつも孤独を恐れていた。その孤独とは字義通りの意味ではなく、俺は別に人間関係の孤独をみっともなく恐れていたわけではないし、本質的な孤独すらも真の意味で恐れていたわけではないのだ。その孤独とはもっとある種の意味での「無化」だった。俺の命を酷く得体の知れない地獄が飲み込み、身包み剥がされて、俺一人。何よりも恐いのは奔流に全てを白日に晒されることでもなく、そのとき俺が俺のままではいられないんじゃないか、俺とは別物の何かになっているんじゃないかという恐懼だった。その時俺は襟を正して真正面からあなたと向き合えるだろうか?俺は常に痛みに対して誠実であり続けられるだろうか?悲しみは尽きず、疑問は尽きない。過ぎゆくあなたにせめて手紙をしたためようとしたのに、言葉はとっ散らかって何も言えないまま中途で終わってしまった。これは何事も真実という言葉に換言してしまう俺の悪癖だが、歩み寄るあなたに何も言えなかったということだけが真実なのかもしれない。