足立健

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天竜川ナコン 共感の構造

天竜川ナコンの『現実チャンネル』に、最近ハマっている。


 彼の代表作は、おそらくこの動画だ。「現実」というゲームの実況プレイをするという建てつけを取っており、「実況」動画が終わったあとに彼お手製のラップが披露される。実況パートでは、「現実」に対する諦念やつらさが連ねられ、それでも少しずつ進んでいくことだけでしか救いはないんだ、というアンサーが示される。ここまでは有りがちな自己啓発と変わらないが、彼は一歩進んで、「少しずつ進んでいくことが既に救いなんだ」というテーゼをしめす。これも馬鹿みたいなまやかしだが、彼自身の実体験や、「ゲーム実況」という没入感を高める形式が、主張に説得力をもたらす。

 ここで「現実」というゲームとあるが、彼は決して、「現実」を戯画化した虚構として冷めた視点から描いているわけではない。むしろ、ゲーム「実況」という構造を取ることで、視聴者の没入感や共感性を高めている。分かりやすく言い換えると、「現実」なんて所詮ゲームなんだから生きてる意味なんてないさ、ということではなく、「現実」がゲームであるからこそ寧ろ、ちょっとずつ、俺と一緒に、肩肘張らずに生きてこうぜ、と呼びかけているわけだ。

 共感の構造はゲーム実況という形式だけに留まらない。彼は語尾に「ワロタ」「ですよねえ」と言う。これは自分だけの「ワロタ」でも、「ですよねえ」でもない。上の動画で特徴付けられるのは、主語が常に非明示であることだ。一部の叙事を除けば、「私」や「あなた」のような主語が登場しないまま動画が進む。これがどう言った効果をもたらすかと言うと、浮き彫りになる「私たち」の存在だろう。上の「ですよねえ」は内心の吐露であると同時にこれを見ている視聴者への呼びかけであり、だからこそ「私たち」の性質を持つ。また、別の動画では、「てめえ」という主語からやはりメッセージを呼びかけている。ここでの「てめえ」は、自分とも、自分がもう一人の自分や視聴者に呼びかけているとも取れるが、ここで見えてくるのもやはり全てを包括した「私たち」だ。ヒップホップにおけるエンパワメントと近いものがあり、こうした文脈上の発想と言えるだろう。


 題材の取り上げ方にもこうした傾向が見え隠れする。切らしていた洗剤を買ったり、無駄だとわかっていても何かしたり……

おしっこ漏れそうになっても あえて我慢して
買い物してみたハタチの日
あまりの試練な感じに価値観揺さぶられ
人格変容 今に至る

心の備忘録 / 天竜川ナコン

 筆者はこのリリックに大変感動したのだが、ここにも共感の構造が表れている。小便が漏れそうという卑近かつ汚らしい題材をあげて、それを我慢して買い物に出かけると言うこれまた卑近で、尚且つ意味の分かるような分からないようなセンチメンタリズムに駆動されたような行為をする。そしてそれによってちっぽけな価値観が変容して今に繋がっているというたてつけだ。極めて小さな事で極めて小さな変化があり、それを後生大事にリリックに書き起こすという構造を取っている。
 これは一見すると意味がわからないが、上記の文脈の中で捉えると確信犯的だろう。このリリックが示すのは、「私たち」は大した存在ではないが、それでも私たちには私たちが大切とするものがある、という忘れられがちな主張だ。そして、これを主張として述べるのではなく、一見意味不明瞭なエピソードトークに忍ばせる事で、押し付けがましくない共感を提供している。ここにも彼の技前が表れている。

 構造の話はここまでにして、ここからは彼がどのような共感を提供しているかということについて考える。彼の与える共感は、「俺だって何者にもなれない惨めなパンピーだけど生きていこうな!」という風な一言に集約されるかもしれない。筆者は彼の動画を初めて見た時、ゼロ年代邦ロックを思い出した。BUMP OF CHICKEN(直訳:弱者の一撃)や、RADWIMPS(直訳:かっこいい弱虫)が若者のカリスマとして君臨していた2000年代は、『何者にもなれない弱い自分』がある種時代のテーマとなっており、68年革命以降的な差異化ゲームと経済的なシュリンクによる若者の自意識の変化とがせめぎ合っていた時代だった。いわゆる『セカイ系』が流行っていたのもこの頃だ。
 彼の動画もそうした例からは多分に漏れていない。彼は動画から知る限り1991年産まれの米津玄師とほぼ同世代であり、米津がBUMP OF CHICKENを始めとするゼロ年代ロキノンロックの系譜から現れたのと同じように、そうしたロックから影響を受けてきたであろうことが推察される。仮に受けていないとしても、そうした時代の「心性」の中にあったことは疑いはないだろう。今や、『終わりなき日常』は終わった。「何者かになりたい」差異化ゲームの領域は全く消え去り、全てが「かわいくてごめん」な序列化ゲームに還元されてしまった。最早藤原基央が、米津玄師が、そして天竜川ナコンが提起した悩みは意味を成さない。かつてあれ程求められた個性は、単なる発達障害というラベリングとともに排斥対象となった。筆者は、だからこそのノスタルジーを彼に覚える。

 何者にもなれない自分に一丁前に悩み、もがき、それでも進んで行こうとする姿勢は、もはやそうした悩み自体が顧みられなくなった今にあってようやく真の意味で完成したのだろう。筆者や彼が思うような悩みは骨董品のように忘却されるのかもしれない。これからの「オタク」や「変人」はそうした悩みすら持てず「チー牛」、「発達障害」として取り扱われ、社会の隅に追いやられるのかもしれない。僕たちの悩みに意味なんて、最初から無かったのかもしれない。それでも、確かに何者かになろうともがいた記憶は自分だけの、かけがえのない大切なものですよねえ!