足立健

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2022年にもなって未だに大衆蔑視を辞められないインテリのカス共(2022-10-11)

 自分は大衆とは違って「知的」に「誠実」で「自明」に「正しい」と思ってるグロい連中がネットには沢山いる。終わってる大学教授。終わってるサブカル男。終わってるプロ市民。終わってる小金持ち。冷笑家。この手の終わってる連中はどうも自分は大衆とは違う何かだと思っているらしくて(客体としての大衆を何らのためらいやペーソスなく分析する手つきは一体どういう了見なのだろうか?)、何かにつけて「大衆は愚かだから〜」とか、「大衆はこれの良さを分かってなくて〜」とか言い立てる。では彼らが指している大衆が常に一定の集団かというと決してそうではない。ある連中の定義では、ゼロリスク思考のいわゆる「コロナ脳」は大衆に該当するらしい。またある連中によれば、科学リテラシーを持たない大衆は簡単に反ワクや陰謀論に騙されてしまうから、自分たちが善導してやらねばと言う。極めてくだらない。それぞれの党派が敵方に「大衆」の押し付け合いをしているだけではないか。また別の連中がいる。俺が一時期交友関係があった気の触れるくらい気色の悪い男によれば、哲学書を読まない畜群は愚かで、知性に欠けているらしい。また、pk shampooのような「すばらしい」音楽を聴いていない大衆の感性は摩耗しており、終わってるらしい。先ほどのコロナに関する話より更に厳しい。以前の彼は他にも、テレビに出ているようなミュージシャンは全員淫売で、それを見抜けない大衆はやはりゴミだということを真顔で語っていたが、ゴミなのは当然彼の方だろう。Mr.Childrenを聴きながら今日も仕事を頑張っているお父さんやBUMP OF CHICKENをBGMに受験勉強に励む高校生のほうが、二流私立大学の哲学科で毎日親の金で酒浸りになりながら思春期的全能感を捨てきれないそいつよりも偉いに決まっている。結局のところ、少なくとも68年革命以降、「大衆」とは単なるレトリックの道具でしかない。自分と異なる党派性の人間、自分とは異なる種類の人間、それでいて同じ国民国家の枠組みのなかで自分と大して違ったところもない「仮想敵」。そういった敵方をカテゴライズするのに最も適しているのが「大衆」という貶し文句なのだろう。要はストローマン論法の一種だ。

 大衆の本質とは無記名性であり、大衆という言葉は何らかの党派性に色づけられた時点で効力を失う。階級闘争史観が頂点に達していた1930〜50年代には意味のあった言葉なのかもしれないが、言葉通りの意味での「階級」は今や西側諸国から消滅している。インテリだろうが小金持ちだろうがサブカル男だろうがお前らは全員大衆なのだ。自分は大衆とは違うと胸を張って言えるのは政治家のガキくらいだろう。そもそも大衆を貶し文句として使用していること自体が、お前が大衆に回収されている根拠となる。マークフィッシャーの『反逆の神話』はそれはもうインターネットのキモいオタクに何度も引用され擦られ続けてるから今さら俺が言及するまでもないが、資本主義に抵抗する仕草自体が資本主義に回収されるように、大衆を見下す行為そのものが自分が大衆の一部でしかないことの傍証となる。自分を変人だと自称する変人はいないという話と同じだ。

 長々と語ってしまったが大衆蔑視を辞めろみたいな話はもう俺が言及するまでもなく何十年も言われ続けており、それでもインテリが大衆蔑視を辞められた試しはない。それどころか「階級」が溶解した1970年代以降、大衆蔑視という思考原理そのものが人口に膾炙するようになり、ふた昔前なら自明に大衆と分類されていたような労働者階級の連中まで大衆蔑視の真似事を始めるようになった。自分を非-大衆だと思い込む大衆とは戦後社会の宿痾だが、ただ「大衆」を見下したり党派性の道具にしたりするような最近の連中より、大衆に絶望しながらも分け入って革命への希望を捨てなかったナロードニキの方がよっぽど偉大だろう。これだけ世の中は進歩しているが、こと「大衆」に対する知的態度に関しては明らかに19世紀より退化しているように感じる。