愛と生きる意味

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夜(2022-3-30)

まあ例のごとくテン年代後半の思春期男子にありがちなことだが俺は米津玄師が好きで、彼がlineブログとか他の媒体で投稿していたブログも(webアーカイブを使って)よく見ていた。その中に確か、夜という時間帯が俺らに与えてくれる許しというか、視線から自由になるのが好きだ、みたいな内容のやつがあった覚えがある。「世界が動き出す前の、歯車が回転速度を極限まで落とした時間帯に隠れて缶ビールを買いに行く」とかそういう表現だった気がする。確かに夜は思考が捗るし、俺が自分の愚にもつかない女々しい苦悩を連ねていたポエムたちも主にそういう時間帯に生産され続けていたはずだ。俺はこの年で未だにオールというのをしたことは無いんだけど、なんとなしに夜という時間帯は俺を守ってくれているような気がする。ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つというが、どこかに消えていったはずの梟は実は、俺の肩だけにぴたりととまっていてくれて、俺は自分の汚らしい祈りを、それなりに整えられた、美しい言葉に再構成する権利を与えられるのだ。夜には全ての言葉が本当になるような気がするし、なるほど夜には全ての消費が消費じゃなくなる気がする。俺はいつだって他者を軽薄に消費してきたし、曲だったり映画だったり(映画はあまり観ないが)も、救いとして機能しそうなやつならなんでも消費してきたが、夜の帳はその決定的な自己矛盾を覆い隠してくれるような気がしていた。言葉にはいつも魔力がかかっていて、それは嘘を本当のことのように喋れる魔力なんだけど、夜の情報量は果たして跪拝の真実性だけを浮かび上がらせてくれるように思える。ずっと昔好きだった女に大森靖子が好きなやつがいた。そいつはVOIDという曲を俺に教えてくれたんだけど、男の視点から見るとあの曲はある種の許しを与えている曲なんだろうと最近思う。そしてその許しは夜の与えてくれる許しそのものなんじゃないかと思うようになった。心の奥底では相手を求め続けるセフレ格の女子が愚にもつかない叫び声をあげるみたいな曲だが、そこで語られている何重にも注釈の入った許し、渇望から来る投げやりな、諦めのような許しは夜の与えてくれる許しとどこか相似形のように思えてならない。夜は汚らしい俺の精神性をなぜか美しく飾り立ててくれて、俺の存在そのものを投げやりに(というより我関せずという風にだが)、許してくれるという感じがするのだ。俺という矮小な一個人が巨大な夜の天幕と釣り合うような許し、救いを求めるのは烏滸がましいのはそりゃそうだし、こういう消費もかつての人にとんでもなく失礼だけど、俺はVOIDを聴きながらそういう風に思えてならなかった。あれは夜の比喩なのだろうか、大森靖子(彼女については一部の代表曲以外詳しくない)は夜になることでしか生きていけなかったのかは知らないが、俺は夜を愛していて、あのずっと前の女も今更ながら愛していたのだろうと思った。