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有吉弘行はカートコバーンである~おしゃクソ事変と脱構築のテレビ史~(2021-11-28)

 有吉弘行マツコ・デラックスは、おそらく最後のテレビスターと呼ばれるべき存在だろう。彼ら以降に、テレビ一本で成り上がり、業界で枢要な地位を占め、その名が人口に膾炙した存在はおそらくいない。現在テレビで猛威を奮うひろゆきはそもそもテレビ(特にフジテレビ)転落の直接の原因を作った『2ちゃんねる(現5ちゃんねる)』の創始者であるし、お笑い第七世代と呼ばれるEXITやその他コンビはスターであると言うまでには若干無理があるだろう。星野源については”そう”見える人も多いのかもしれないが、彼はアングラ演劇と極めて文化的に近しい『大人計画』の出身で、細野晴臣などのはっぴいえんど人脈(テレビ的論理とは一線を画す集団)の庇護下で成り上がり、『逃げ恥』での爆発的な人気はテレビによってつかんだものの、『Pop Virus』以降はテレビ業界と一定の距離をとっている。

 要は有吉とマツコは衰退するテレビ業界が生んだ最後のスターであり、『マツコ・有吉の怒り新党』は2010年代前半において極めて示唆的な番組だったといえる。また話はそれるが、日本はおそらく世界で一番テレビが繁栄した国家でありながら、世界で一番テレビが衰退を被った場所でもある。本稿では、二人のうちの有吉に焦点を当てて(マツコについてはまたいつの日か考察を入れてみたい)、彼がなぜテレビ業界で最後の玉座をつかんだのか、また、日本においてなぜこれほどまでにテレビが衰退したのかを考察していきたい。

楽しくなければテレビじゃない⇔テレビは楽しくなければならない(手段は問われない)

 日本において、特に80年代以降のテレビの歴史を簡単に定義すると、日本におけるカウンターカルチャーポストモダンの最も意欲的な実験場であり、また脱構築の舞台であろう。この無限の脱構築ゲームとしてのテレビ史が完全に決定したのは、70年代後半に巻き起こった漫才ブームであり、『8時だョ!全員集合』の牙城を切り崩し、「楽しくなければテレビじゃない」を標榜した『オレたちひょうきん族』である。すなわちビートルズとしてのビートたけしの登場こそが、一億層中流社会が出現しつつあった戦後日本における内発的カウンターカルチャーの嚆矢なのだ。米英におけるロックやヒップホップ(後者はネットワーク・カルチャーとしての側面が強いため多少異なるが)の役割を、日本ではお笑い芸人が担った。これは、邦楽ロックのレジェンドたちの社会階層と、レジェンドお笑い芸人たちの社会階層を比較の俎上に載せれば明らかな話で、ビートたけしとんねるず、またあまりにも有名な話だがダウンタウンは正しく都市下層民出身である一方、はっぴいえんどでは地方アッパーミドルの大滝詠一を除いた3人は完全なる上流階級、ブルジョワ階級なのである。反例はいくらでもあろうが、日本においてロックが欧米に比べ金持ちのものであるという傾向(批評文脈におけるBOØWYの矮小化とフリッパーズギターの天井知らずの評価は一体なんなのであろうか⁉)と、漫才ブーム以降がお笑い芸人側がカウンターカルチャーとしての使命を背負ってきたという歴史を否定するのは難しいだろう。我が国は外道バンドを邦楽史の傍流に追いやってきた歴史を持つ。

 カウンターカルチャーはその歴史的使命として、ポストモダン脱構築を他文化より徹底して繰り返さざるを得ないものである。ロックにおいてはビートルズツェッペリンピストルズニルヴァーナなど(筆者としては個人的好みとしてここにブルーハーツフリッパーズギターを付け加えたい)と、常に脱構築の歴史だった。大体レディへのオケコン(KID Aかもしれないが)あたりで臨界点に達したこの無限の脱構築ゲームは、エミネムカニエウェストによってメインストリームから半ば追放されてしまったが、果たして我が国内発自家製ロックンロールのお笑いでも、漫才ブームひょうきん族以降常に脱構築が繰り返されてきた。最初にひょうきん族が全員集合での予定調和的笑いを破壊すると、とんねるずはテレビ内での内輪ネタそのものに視聴率の鉱脈を発見した。またツービートとB&B紳助竜介は「16ビートの笑い(島田紳助談)」によって旧来のお笑いを破壊し、さらにそうした笑い自体も「ピカソのような(同上)」ダウンタウン脱構築してみせるという歴史をたどった。さらに余談だが、ダウンタウンの『HEY!HEY!HEY!』は、そのこと自体に大分批判はあるものの、お笑いそのものが最高権威として誰もが道化師にひれ伏すという構造を作り上げた点で、日本のお笑いが最初の臨界点に達した番組だと言うこともできる。ダウンタウン松本人志は極めて「楽しくなければテレビじゃない」を内面化した存在であり、ダウンタウンがある種の臨界状態をテレビ世界で最初に現出できたというのは示唆に富む。

ひな壇という「臨界」

 果たして日本においてこの無限の脱構築ゲームはどこまで続いたのか、筆者は「ひな壇」システムの登場と隆盛をその終着点、臨界点と置きたい。現にひな壇以降明確な有効性を持つ番組構成は現れていない。昨今のテレビ業界はもはやひな壇を維持することすら放棄したのか、『月曜から夜更かし』や『怒り新党』をおそらく出発点とする徹子の部屋と見まごうばかりの低予算のカスみたいな番組しか垂れ流さなくなっているが、テレビ的脱構築が「かっこよかった」時代(おそらく2012年のフジテレビ前デモまで)に起こった最後の脱構築がひな壇システムだとはいえる。ひな壇システムがなんなのか、その特色を見ていこう。

wikipediaひな壇芸人を説明する項では、ひな壇芸人は「邪魔にならないように番組の手助けを行ったりする」芸人として記述されているが、その起源は『笑点』の大喜利や、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に遡るとする。ただこうしたひな壇芸人を集めて面白い番組作りをするという手法を意識的に完全に体系化することに成功したのはおそらく島田紳助の『行列のできる法律相談所』からで、島田紳助漫才ブーム終了後、先の動画で松本人志に指摘されたように、「周りを面白く見せる技術に長けすぎているせいで、その面白さが島田紳助本人のものだということが分かられていない」という問題を長らく抱えていたが、それを逆手にとった彼は、ひな壇システムが伸長するゼロ年代の芸能界で玉座を得るまでになったのだ。

テレビとの関係性における2ちゃんねる略史

 ここからは少々稿をさいて、今後の予備知識として、2ちゃんねるの略史をテレビとの関係性を軸に描こう。2ちゃんねるは日本においてテレビが急速に力を失うようになった最も大きな理由の一つだといえる(設立者のひろゆきが死に体のテレビ業界で荒稼ぎしているのは皮肉としか言い様がない)。テレビが2chおよびインターネット文化に敗北を喫する最初期の、一番最初の、エポックメイキングな事件は湘南ゴミ拾いオフ(2002)だろう。

フジテレビの偏向報道へ対抗する正義の2ちゃんねらー達は27時間テレビでの目玉企画をまるごと一つ潰すことで自らの大義を示そうと考えた。放送前日に綺麗にされてしまった海岸を前に、フジテレビ達はキムタクが意味もなくサーフィンをする画で尺を稼がざるを得なくなった...というのが事の顛末だが、最も重要なのは、この日以降旧メディアの外部には新たな「リアル」な言語空間が立ち上り、彼らは旧メディアでさえ無視ができなくなったと言うことだ。2chのオタク達を中心とするテレビへの批判者は、主に「特亜三国」を優先する「偏向」メディアをこき下ろすことで思想的な結束を図り、その主張がどれほどに説得力あるものなのかはさておき、彼らの運動は最終的に『いいとも』『みなおか』『スマスマ』の終了と、安倍政権の誕生に結実する。余談だが、我々若者世代から見れば安倍政権とは抑制的な新自由主義政権にしか見えず、筆者のネオリベ嫌いは置いておいて、なぜこれほどまでに中年以上の左翼から断末魔の攻撃が加えられるのかは意味不明としか思えない。しかし、安倍政権とは誕生の経緯、また安倍晋三氏本人から時折垣間見えるタカ派的言動からまさに日本のトランプを想起させるものであり、一若者である筆者は、あの異常な反アベムーブメントは左翼がトランピズム的なものにアナフィラキシーショックを起こした結果として解釈している。

(ひな壇で)おしゃべり(してるだけの)クソ野郎

 おそらく説明の必要もないだろうが、ここでおしゃクソ事変について簡単に説明を試みたい。おしゃクソ事変とは、当時猿岩石解散後の「終わった人」扱いをされていた有吉弘行が、逆にひな壇芸人の筆頭としてノリに乗っていた品川祐を、「おしゃべりクソ野郎」というただの一言で粉砕したというまさにお笑い史に残る一大事件だ。これをきっかけに有吉は一気呵成にトップ芸人へと上り詰め、逆に品川祐は若手トップの座から転落した。この二人の間での運命の変転は重要なマターではない。より重要なのは、おしゃクソ事変がお笑いというカウンターカルチャーの世界において、さながらNirvanaの『Smells Like Teen Spirit』のような一大転換点となったということだ。

この記事では、品川が転落し、有吉がトップ芸人まで上り詰めた理由を、ひな壇システムの中で場の戦術を究め、ひな壇芸人のトップにのし上がったがそれゆえひな壇という構造にとらわれてしまった品川と、正しくひな壇という構造そのものに「お前ひな壇で偉そうに振る舞ってるけどテレビ村の”外部”から見たらおしゃべりクソ野郎でしかないぞ」という風にある種冷や水を浴びせ、脱構築に成功した有吉の違いに求めている。ラリー遠田氏の批評はあくまでお笑い批評の文脈にとどまっているためこれ以上の考察はなされてないが、筆者は社会的文脈、他のカウンターカルチャーとの比較の文脈においてもう一歩踏み込んだ考察を行いたい。

 有吉弘行(特に再ブレイク後初期)の笑いの特徴とは、千原ジュニアが「究極のカウンター芸」「自分の貯金は減らない」と評したように、常に批評者の立場からテレビ業界そのものにカウンターをくりだすことによって芸人としての賞味期限を極めて長くしたことにある。そしてそのカウンター芸の源泉は「世間の空気感」であり、有吉は世間の空気感をそのままあだ名や毒舌、コンプラすれすれの行動として実体化することに異様に長けており、これが有吉再ブレイクの原動力となった。

 ここで有吉の笑いの特徴をもう一度つぶさに見てほしい。彼は何度も言うようにテレビから”外部”の「リアル」な空気感、言ってしまえば冷や水を直接芸能人達に浴びせる(小倉優子『嘘の限界』など)ことでのし上がったのだが、これはよく見るとインターネット(2ch)とテレビの関係に極めて酷似しており、有吉が本当に成功したのはテレビの内部においてインターネット的な集合的無意識の代弁者(おそらく意識的)になることだったのだ。上の動画の(2.00〜)で彼は、twitterでの世間の反応を出しにして後輩芸人をいじっている。このような笑いは現在でこそ珍しくなくなったが、おそらく有吉はこうした笑いを最初期に実践していたひとりであろう。

 こうした笑いが成立した理由は大きく二つある。まず一つはテレビが脱構築を繰り返したことで業界の内部に自閉して行ってしまったこと、もう一つに、何度も言っていることではあるがインターネットという新たな「メディア」の登場である。70年代までのお笑いの形とは全員集合や萩本欽一の番組群のように、観客を笑わせるためのコントや演劇、催し物が中心の、極めて様式的なものだった。それが変化したのが漫才ブームひょうきん族、さらにとんねるずの登場で、彼らはお笑いを「かっこいいもの」として、権威へのカウンター、さらにバブル華やかりし日本において輝かしい内輪ネタを氾濫させた。その代表的な例が車庫入れ事件である。ビートたけし明石家さんまの車をめちゃくちゃに壊すと言うだけの内輪ネタで日本中が抱腹絶倒の渦に包み込まれたのである。正しく内輪ネタはテレビを楽しくしたのだ。

90年代に入るとダウンタウンのHEY×3、さらに島田紳助の一層の伸長によって、お笑いを頂点とするテレビ業界の自閉した傾向はさらに強まっていく。ひな壇芸人の隆盛などは正しく内輪ネタの極致であり、ただ面白いことがいえる”だけ”の人間の内輪ネタを見なければコンテンツにありつけないという地獄のような状況は一層深化していった。この内輪ネタへの深化/進化を強制的に終了させたのが、インターネットと有吉弘行という内部外部双方の破壊者だったのだ。まさに有吉の登場とは日本のテレビ界にとって革命だった。日本のお笑いを米英ロックミュージックになぞらえるアナロジーにおいて、内輪に自閉していったテレビにおける無限の脱構築ゲームを、「おしゃべりクソ野郎」の一言で完全破壊した有吉は、80年代HR/HMをスメルズ一曲で完全破壊したカートコバーンの日本版なのだ。有吉はカートがロックを葬ったようにテレビを葬ったとも言える。

 これまで本稿を見てきたことで、有吉は、日本における68年革命以降(または戦後)、テレビを舞台に展開されてきた脱構築ゲームに終わりを突きつけた存在であることが分かっただろう。無論、彼の登場後も時代は連続しており、島田紳助は彼の再ブレイク後も四年間芸能界に居座っていたし、2012年ごろまではテレビもその影響力を保っていた。ただ、やはり彼の登場後子供達のスターはお笑い芸人ではなくHIKAKINなどのYouTuberに交代していったとはいえるだろうし(HIKAKINは筆者が小学生だった頃からすでに子供達の間ではトップスターだったので十年選手である)、有吉はインターネット登場以降の時代精神を体現するような発言の数々でのし上がったのだから、彼の発言やネタはやはり学術的文脈で(それこそたけしや松本人志のように)解体される必要性があるように思われる。まあ何はともあれ筆者は有吉弘行の大ファンなのだ。まずは彼の結婚を1ファンとして祝福したい。おめでとうございます!!!