足立健

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『サード・サマー・オブ・ラブ』BLM(ブラック・ライブズ・マター運動)の失敗はなにを意味しているのか?

極めてショッキングなニュースが流れてきた。

イスラエルのシンガーがラップに載せてパレスチナ人へのジェノサイドを煽るといった内容の曲がイスラエルでは大人気だという。一応筆者も聴いてみたが、格好いいトラックに言葉は知らないが格好いいフローが載っており、文脈を知らなければお気に入りにしてしまいそうだ。アドリブ的なshoot!がいい味を出している。共有して再生数にさらに貢献してしまうのは癪なのでリンクは載せないが、興味のある方は調べて聴いてみると良いかもしれない。

要は、普通にいい曲なのだ。であるのに、少なくともここで歌われている内容は、「イマジン」や「オールユーニードイズラブ」、「ワンラブ」、「オールライト」などの、英米で積み上げられてきた"はず"のポップスの歴史からは明らかに逸脱しているように見える。さらに、イスラエルは(第一世界以外への差別的な物言いになってしまうが)一応は高い国民所得を持つ「西側先進国」の一員であることから、なおさら衝撃的である。ここで元ツイートの高橋健太郎氏の言うような「ポップスはそもそも殺人者の音楽だ」という見方に筆者は賛同しない。芸術とは本来価値中立的であり、それが時代によってどういう意味を持つかのほうが重要だからだ。つまり、ロックやヒップホップなど、戦後の平和のなかで築き上げられてきた「カウンター」カルチャーが、洗練されたプロパガンダの道具と堕してしまった現実のほうに、筆者は注目する。

アメリカン・ポップスの黄昏

筆者個人の歴史観として、ポップスの歴史は大きく3つのターニングポイントがあると考える。

  1. 1960年代中盤の、ビートルズを筆頭としたさまざまなグループが文字通り音楽に革命を起こした時代。

  2. 1990年前後の、ロックが覇権を失い、ヒップホップやR&Bが後釜に収まるようになった時代。

  3. 2020年以降の、サブスクサービスの伸長とBTS以降の「コリアン・インヴェイジョン」によって突入した新時代。

大体これくらいの時期に音楽界には地殻変動が起こり、カルチャーの変化が起こった。そして、筆者がこれから論じたいと考える「サマー・オブ・ラブ」はそれぞれこの時期と重なる。一度目の無印「愛の夏」は1967年7月に起こったと言われる。二度目の「セカンド・サマー・オブ・ラブ」は1980年代後半に起きた。そして筆者は「サード・サマー・オブ・ラブ」を2020年のBLM運動と定義する。

ここで、まず一度目の「サマー・オブ・ラブ」について簡単な説明をしよう。1967年のカリフォルニアにはすべてがあった。そこにはLSDがあり、サージェントペパーズがあり、コミューンがあった。「愛の夏」という安直すぎる表現は、安直すぎるが故にすべてを表していた。名だたる芸術家たちと彼らに教導された若者たちはあらゆる面での伝統を破壊して回った。それは明らかに「革命」の灯であり、1920年代のソビエト連邦が挫折した『人民に奉仕する芸術』のある種の姿だった……と、歴史書は言う。

いくぶんの誇張は含まれているが、1960年代後半の西側諸国民が岐路に立たされていたのは、振り返れば明らかだ。この時代における最大の特徴は、「ドラスティックな革命が起き"なかった"」ことにある。この時代、政治的な変化は特に起こっていない。唯一フランスではドゴール政権は倒れたが、その後共産主義革命が起きたわけではない。プラハの春ソ連に速攻で鎮圧されたし、日本やアメリカでは、佐藤栄作-田中角栄ラインや、ジョンソン-ニクソンラインによって保守的な政治が続いていた。しかし、ビートルズたちはこの戦いに「勝利」したと言える。68年革命およびその「前史」としての「サマー・オブ・ラブ」は、政治的な変化ではなくむしろ———もっと根源的な———人々の意識を根底から変革したのだ。経済成長によって都市的なライフスタイルが西側諸国の田舎まで浸透し、フリーセックス(現代的な恋愛の直接的な源流)やドラッグが広まり、ロックに代表されるようなカウンターカルチャーがメディアで大っぴらに流れるようになった。現代的な生活の直接的な起源がこの時代にある。

二度目のサマー・オブ・ラブは、レイヴカルチャーの興隆をもたらした。現代のクラブミュージックはここに直接的な起源があると言っても過言ではない。80年代後半のイギリスで盛り上がったこのムーブメントは、後のロックの没落を予期していた。ヒップホップの登場やヘヴィメタルの行き詰まり感など、それまでカウンターカルチャーの主役だったロック音楽は終わりの兆候を示し始めていた。二度目の愛の夏もその一つである。結局その後ロックは、カートコバーンという自己破壊的なスターによって再起不能な状態に陥り、ヒップホップとクラブの時代が始まるのだ。そしてその兆候の一つにこの「夏」があると言える。

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「俺はフレディマーキュリーにはなれない」と嘆いて拳銃自殺したカートコバーンの遺書は、カウンターカルチャーとしてのロックを文字通り終わらせた。

翻って、三度目の「夏」はどうであったろうか。筆者はこの年こそがカウンターカルチャーそのものにとって大きな転機だったのだと考える。おそらく2020年以前ならば、イスラエルの虐殺ソングが日の目を見ることはなかったのではないか?例えばイラク戦争が起きたときに世界で流行っていた曲は、ブラックアイドピースの”Where Is The Love”であり、SMAPの『世界に一つだけの花』であり、ジョンレノンの"Imagine"だった。無論パレスチナに恨み骨髄のイスラエルと、お気楽な平和を享受する日本国民の意識の間には相当な隔たりがあるのは事実かもしれない。しかし、実際ウクライナ戦争やガザ侵攻のあと、平和を願うプロテストソングは世界のどこでもヒットしていない。これは明らかにポップカルチャーの変質を表している。そして、その転機を端的に表したのがサード・サマー・オブ・ラブ=Black Lives Matter運動の失敗なのだと考える。

政治社会的に2020年は今に至る混乱の幕開けとして記録されるだろう。コロナ禍は社会の脆弱性を露呈させ、国際政治的にはその後さまざまな地域で一国行動主義が顕著になった。そして、何よりも超大国アメリカの覇権は明らかに相対化された。アメリカの力が落ちたわけではない。未だにアメリカはビッグテックや巨大な海軍を擁し、最強国家だ。しかし、BLMと議会襲撃事件によってアメリカを「スーパーパワー(超大国)」ではなく「グレートパワー(列強国)」とする相対化された見方が導入されたのだ。これ以降(特に議会襲撃事件や今年のガザ侵攻以降)、アメリカは「クーデター未遂が起こるレベルで国内は不安定で、中国やロシアにも押され気味のくせに正義面してる巨大な未開国家」として、一部の国からは明確に「舐められ」始めている。

音楽においてもこの年は新時代の幕開けを象徴するものとなった。2020年はBTSが始めてビルボードで一位を獲得するという、明らかな大事件があった年だ。しかしBTSの成功は、単なるアイドルグループの成功という以上に重大な意味を孕んでいる。BTSは、「アジアン」でありながらある種のセックスシンボルとして欧米を席巻した最初の存在となったのだ。これまで戦後70年間、アメリカの覇権のもとフィーチャーされてきたセックスシンボルは、格好の良い白人男性だったり、あるいはロックが没落してからはNBA選手やラッパーのような黒人男性だった。彼らはアメリカという国の人種プールの主要なところを占める属性であり、白人であれ黒人であれ「アメリカ」という覇権を背景にした存在であることは確かだ。BTSは、それら二つのどちらでもない。人種プールとしてはアメリカの中で最も小さな影響しか持たないアジアンで、アメリカ人でもない。アメリカは、おそらく覇権を握って以降始めてアメリカ人でもなく白人でもないアイドルに熱狂するようになったのだ。これは「アメリカ」が文化においても中心とは言い難くなったことを表しているのではないか?

20世紀のポップスはブルースや黒人労働歌、カントリーミュージックなどアメリカのルーツミュージックを直接の起源として誕生した。大衆文化の中心がロックおよびヒップホップであり、そうした文化は「パクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)」のもとあった。イマジンなどの「お花畑」的な名曲の数々は、今やオリンピックで歌われるほどの「名曲」だ。こうしたプロテストソングはアメリカ「政府」の攻撃を食らっていたが、それら名曲の最大の後援者はアメリカが作り出した平和だったというパラドックスがある。いずれにしても、アメリカ人やイギリス人が作り出した名曲の数々は時代の中心として機能していた。日本や韓国などの「周辺」が、どのように英米の文化を取り入れるかを四苦八苦していた(日本語ロック論争など)ことからも、それは明らかだろう。

そしてその状況は2020年を境に明らかに変わった。今やアメリカの音楽はラテンミュージックとラップミュージックに占拠されるようになり、人口動態の変化がもろにメインストリームの変化に現れるという、ある種興醒めな状況が現出している。2010年代あれだけ出現したブルーノマーズやテイラースウィフトのようなメガ・スターの代わりに出てきたのは、ビリーアイリッシュを除けば陰鬱なラッパーばかりだ。右翼的なプロテストカントリーソングや、あろうことかK-POP、J-POPまでがチャートに現れるようになり、かつてアメリカが中心になって回っていた世界の音楽の図式は完全に崩壊した。

要は、すでにアメリカの音楽は世界の中心ではなく、そもそも音楽自体もカルチャーの震源地ではなくなったのだ。これには様々な理由がある。例えばSpotifyの影響でシーンが細分化され、中心を持たない様々な国での流行がインスタントな広まりを見せるようになったこと。アメリカの人口構成がもろに変化したことも相まって、ラテンの影響が可視化されたこと。アメリカの分断の加速による大衆文化の縮小。そもそもSpotifyによって音楽が「稼げる」ものではなくなったこと。色々ある。ただ、アメリカの音楽も、音楽そのものも世界を変える訴求力を持ち得ない時代が始まった。それは、AIの登場により「複製可能性」が臨界に達したことも重なって、これからも加速していくだろう。

ここで筆者は改めて、ここまで述べた「音楽」の限界と終わりをある種象徴する出来事になったのが2020年のBLMだと主張したい。BLMのアンセムとなったのはケンドリックラマーの”Alright”だった。黒人コミュニティに大して希望と啓蒙を歌うこの曲は、発表から10年も経たないうちに歴史的名曲としての地位を確立した。かつての公民権運動で”A Change Is Gonna Come”があったように、ベトナム反戦運動で” What’s Going On?”、ジミヘンの星条旗があったように、その後の戦争で”Imagine”が常に鳴っていたときのように、今回の抵抗運動でも中心となるアンセムがあった。

「惨めな」シアトル・コミューン

筆者はBLMをさきに「失敗」と記したが、BLMの意義と方法論を否定しているわけではないことをここで断っておく。そもそも政治運動には血腥く破壊的なにおいが付き物であることは事実だ。今回、建国の歴史にまで遡及してリンカーン像やワシントン像が燃やされたのは非常に衝撃的だったが、それを除けば今回の暴動が60年代の公民権運動と比較してそれほど過激だったわけではない。さらに、60年代の社会運動は、ものごとの顛末だけをあげつらえば、基本的に「全て」失敗している。先ほど筆者はドラスティックな革命は「起きなかった」と記述したが、それは厳密には間違っている。正確には「起こせなかった」のだ。60年代の思想的リーダーだった毛沢東の起こした文化大革命はその後内部でおぞましい虐殺が進行していたことが白日のもとに晒されたし、東側のプラハの春も速攻で鎮圧されてしまった。要は、今昔で起きていることに大して違いは無いのだ。それでも筆者は68年を成功、2020年を失敗と主張する。

2020年の失敗を構成するのは以下の2つでほとんど説明がつく。

  1. 中間層の没落により社会に「上潮」な雰囲気が消えたこと

  2. インターネットによって「失敗」の状況が可視化され、憎悪がさらに増幅されたこと

無印「愛の夏」の原動力は何度も言及したように中間層の成長であり、それに対して3年前の惨劇は中間層の没落が原動力だった。さらに人種間対立や階級間対立が深まったことで分断=「大きな物語の消滅」が起きて、インターネットがそれを煽ったことも大きな理由だ。そして筆者はここが何より見落とされがちだと考えるが、SNSは官制的な「真実」が通用せず、インスタントな刺激を駆動するアルゴリズムに従って悲惨な光景が流れてくる。それはBLMにおいて良性の影響も悪性の影響ももたらした。ジョージフロイド氏の衝撃的な殺害動画がインスタントに拡散され、それが民衆のフラッシュな怒りを喚起したのは、良性の影響といっても良いかもしれない。しかし、怒りに駆られた人々が暴動や破壊を起こせば、第三世界の如くセンセーショナルな風景がやはりインスタントに拡散され、ただの「暴動」としてのBLMの現実を「暴いて」しまう。全ての政治運動は闘争としての血腥さを孕んでいるのに、SNSはその血腥い要素をことさら強調することで、更なる分断をもたらしてしまうのだ。官制的な真実の切り取りが効かなくなったことで、言論空間は完全なカオスに陥った。トランプ以前の私たちの平和は、「マスゴミ」による「言論統制」によって成り立っていたような気さえしてくる。

上記のクリティカルな例として、2020年のシアトル・コミューンをあげよう。実は、60年代の変動期にはコミューンが各地で現れた。ドゴール退陣を要求するフランスの大学生が路上のいたるところに作ったコミューン、サンフランシスコのヒッピーコミューン、ウッドストックやワイト島のフェスティバルもコミューンの一種と言って良いかもしれない。

この中でいちおう成功を収めたのはウッドストックくらいだろう。フランスのコミューンは最終的に住民の総スカンを食らい、翌月の選挙ではドゴール派が大勝した。ワイト島フェスティバルでは暴動が起き、この暴動や前年のオルタモント・フェスティバルでの殺人事件を起点に、急速にヒッピームーブメントが萎んでいくこととなる。サンフランシスコのヒッピーたちも、漏れ伝わってくる外からの実像で見れば成功だったのかもしれないが、訪問したジョージハリスンがドン引きしてLSD断ちをするくらいには荒廃した状況が広がっていたようだ。

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2020年のフィラデルフィアでの光景だが、67年のサンフランシスコにもおそらく似たような地獄が広がっていたものだと思われる

それが許されていたのはやはり「上潮」の経済とインターネットの不在によるものだろう。当時の彼らの少し間抜けで破壊的な実相は覆い隠され、栄光の歴史として今では語られている。翻って、2020年にはシアトルでコミューンが出来た。当時高まっていた警察への批判を受けて、警察権力の通用しない楽園を作ろうとしたようだ。自治区の宣言当初、民主党のダーカン市長もこの存在を「近所のパーティのような雰囲気だ」と肯定的にとらえ、市の予算を配分する交渉も始まっていたらしい。余りにもお気楽な話である。トランプの攻撃もレッテル貼りと考えられ、リベラルを中心に歓迎の雰囲気が広がっていたのだ。

その高邁な理想はできた瞬間からかなり怪しくなってくる。組織の内部での対立や暴力が蔓延し、KKKなどとの抗争が起こり、一ヶ月もしないうちに市は強制排除した。語るまでもなくどうしようもなく「惨めな」失敗の光景だった。ただこれがもし60年代に起こっていたら、いまの筆者のような語り口だっただろうか?彼らは別にあさま山荘事件のように人質を取って殺しを行ったわけでは無い。ただ内部の治安が悪かっただけで、上で見た60年代の抗議運動とあまり違いは無いのだ。それでも60年代の運動は今でもヒロイックに語られ、2020年の運動は明らかに「ダサい」結末となってしまったのだ。起こっていることは変わらないのに、社会状況とインターネットがBLMを失敗に追いやってしまった。キング牧師が実現した国民統合の世界は遠のき、欧米先進国は人種階級間闘争の渦に放り込まれることになる。

そして、こうした暴力の渦が行き着いた一つの象徴として議会襲撃事件があった。この一連の事件は、先ほども述べたようにアメリカの文化覇権に致命的な影響をもたらした。メッセージはより内向きに、モンロー主義的な自閉をし始めている。ケンドリックラマーは今でも巨大な影響力を持つ現代のジョンレノンというべき存在だが、その力のベクトルは共産主義的で夢想家的(ドリーマー)な方向には向かわない。クソみたいな現実(マッドシティー)で育った男が、出自の黒人コミュニティのためにalright!と、メッセージを発するのみだ。その純度とクオリティが普遍性を持って「しまう」から人気なだけで、彼のメッセージ自体に普遍性があるわけでは無いのだ。彼の存在は、大きな物語が完全に崩壊し、小さな分断が覆う世界を象徴している。

夢は終わった

今後この状況はさらに加速していくだろう。ケンドリックラマーの人気も、ラテンやK-POP、J-POPの躍進も、イスラエルでの虐殺ソングのブレイクも、そしてBLMの失敗も、全ては一つの線で結ばれていると、筆者は考える。それは、世界の全てが「夢」を見られたイマジン的な時代の終わりであり、冷戦のような主義の時代の終わりであり、破片のように散らばった小さな物語たちが対立を先鋭化させていく時代だ。そしてAIの発達とサブスクビジネスはポップスという夢を終わらせていくのだろう。サード・サマー・オブ・ラブはもう来ない。何故ならオピオイドまみれの"それ"はもう来たあとで、それが残したのは愛ではなく憎悪だったからだ。「戦後」という夢は終わり、私たちは次の時代を見通せないままでいる。

Yesterday
I was the dream weaver, but now I’m reborn
I was the Walrus, but now I’m John
And so dear friends, you’ll just have to carry on
The dream is over

God / John Lennon & Plastic Ono Band

『ジャニーズ問題と一億総芸能人化』大人になれない「タレント」たちと、売春婦化する私たち

むかし、子供ながらに香取慎吾のコメントにギョッとしたことがある。確かSMAP時代の彼が27時間テレビかなにかに出たときに、「解散はあるのか?」と聞かれたときの回答だ。

「大人たちに強制されない限り解散しません」

たしかそんな感じのコメントだったはずだ。私たちが知る通りその後SMAPは「大人たち」の手によって解散させられて、メンバーは各々の道を進んだわけだが、筆者は決して後の時代の崩壊を幻視してギョッとしたのではない。当時子どもだった筆者は、「いやお前も大人だろ」という至極素朴な疑問と感想を抱いたのだった。上の香取のコメントは、「大人たち」を自分たちに何か干渉してくる客体として置くことで、自分たちを「大人」の世界から切断している。では、「大人」ではない香取は一体何なのだろうか?「子ども」なのか?こうした、自分を「大人」から切り離したコメントは彼や(旧)ジャニーズアイドルのみのものではなく、芸能界にいくらでも転がっている。スタッフやマネージャー、制作関係者などを「大人」と呼ぶような類いのものだ。じゃああなた達は?大人ではないの?

彼らの言う「大人」を観察していると、ある種の責任主体という意味合いで使っているのだと分かってきた。制作の責任を取るもの、我々をマネジメントしてくれる責任を持つもの、カネとコネのケツを持ってくれるもの……。「大人」から切り離されたタレントたちは、少なくとも彼ら自身の認識の上では責任を取り得ない。彼らが取りうる責任は、仕込まれた技術を披露する、あるいはその質を上げるということだけだ。ここだけみれば医者や弁護士のような高度専門職と変わらないような気もしてくるが、医者や弁護士は自分を「大人」ではないと定義したりはしない。では、こうした高度専門職と「タレント」は何が違うのだろうか?

おそらくそれは芸能というものの本質や、歴史的な起源によるものなのだろう。よく言われる大手プロダクションの支配構造も関係しているのかもしれない。先日ビートたけしが「我々は猿回しの猿のようなもの」と発言していたが、芸能人は「河原乞食」というかつての蔑称に象徴されるように、「社会人」的な意味での「大人」には決してなり得ない。彼らがハレの存在であるとすれば、一般人がケであり、交わることがない、とも言える。

思えば私たち一般人は芸能人基準で「大人」と見なされるが、その基準は一体どのように保証されるのだろうか?いわゆる勤め人や社員として働くものが芸能人より責任を負わされているとは思えない。むしろ逆だろう。勤め人は自分のプライベート(不貞行為や多少の法律違反)に責任を負わされる必要はなく、そもそも自分の仕事で負わされる責任すら最終的には上司や社長、株主に帰結する。プロレタリアートは生産手段を持たないがゆえに資本主義的な意味での責任主体となり得ない。自らの芸という生産手段を持つ芸能人のほうがよほどブルジョワ的(原義的な意味で)だろう。どう考えても香取慎吾の方がスマスマやいいとものスタッフより人格者(として振る舞うよう強制されていて)で、たくさんのカネも背負わされているのに、香取自身の中で彼は非-大人なのだ。

ここで提起されるべき問題は「なぜ彼らは大人になれないのか?」ではなく、先ほど答えを出した「なぜ彼らは大人と"見做され"ないのか?(アウトローな存在と見做されているから)」でもないのが分かるだろう。「彼らの『大人』としてのあり方がどのような形で大衆から簒奪されているのか?」という問題だ。筆者の立場をここで明示しておくと、理由は後述するが芸能人が「河原乞食」と見なされるような社会に対してむしろ賛同派である。したがって筆者はこの構造を特段問題と考えていないが、備忘録的に記述したいと考える。

日本芸能は落語や歌舞伎からスタートした。厳密には能や猿楽、舞や狂言などがあるが、ここでは大衆を動員した高度で俗悪な文化を対象とする。これらは、特に歌舞伎などは演者が性的対象となることで人気を集めた。そもそも舞のような文化は売春の高度な形からスタートしたものであり、芸能はそもそもが売春の相似形である。ジャニーズ問題や枕営業などに見られるように、芸能と売春的行為が切っても切り離せないのはここに淵源がある。

こうした歴史的経緯から芸能人のような職業は「伝統的」に見下されるようになった。むかしの芸能人は今と違い、多少の不倫や薬物使用はおおらかに許されていたものだが、これも「河原乞食のやることだから仕方ない」という当時の価値観の反映だったことは容易に推測つく。ジャニーズ問題が今に至るまで報道されなかったのも、彼らのメディアとの癒着や総務省や中曽根との癒着だけが原因ではない。お稚児文化華やかりし高野山の高僧の息子でありながら日系米人(CIAのスパイ)でもあるというマージナルマンが運営する事務所に、これまた一般社会から外れてでも成功への道を駆け上がろうとする子供達が集い、「何か」が行われている。実話だけれどもどこか現実感のなく寓話的で、それであるが故に誰も指摘できないのだ。芸能界というハレの場には、そういったこともあるだろう?ジャニーズ問題はそうした空気の中で生まれた問題であり、梨園問題も、宝塚問題も、香取慎吾が自分を非-大人と置くのも、そうした所から生まれたものだ。

こうした、社会の汚さの写像を芸能界という蠱毒に全て押しこんで目を逸らすという構造は、筆者は解体に向かっていると考える。ジャニーズ問題や宝塚問題が「性的強要」や「過労」という文脈で報道されている現状はこの象徴だろう。ただの不倫で世論から集中砲火を食らい何年も復帰できないのも、その一例だ。芸能界は少しずつではあるが浄化されており、反社会勢力との繋がりも今や断たれていると言って良い。ではこれは単なる芸能界の浄化を意味しているのだろうか?

芸能界がそもそもなぜこれほど巨大化したかと言えば資本主義によるものだ。テレビや映画以前の芸能人がパトロン探しに奔走させられていたことを考えると別世界のようだ。これは「スーパースター効果」という言葉で説明される。大谷は年俸が100億円近く貰えるんじゃないかと噂になっているが、打率が大谷とたったの一割しか変わらず投げる球の速さもそう変わらないであろうエンゼルスの半一軍選手の年俸は、おそらく1000万円もいかない訳だ。トップに漸近すればするほど富の集積効果が働き大金持ちになるという資本主義のシステムによって、「河原乞食」たちは大金持ちとなった。これは現在さらに顕著となっており、Spotifyなどでは一部のトップアーティスト以外はマトモに稼げない構造になっている。テレビに出るような芸能人になれば大金持ちになれて、モテモテになれるという欲望から私たちは逃れることができない。

このようにしてジェームズディーンとビートルズ以降芸能界が資本主義構造にビルトインされると、私たちは芸能人に憧れるようになった。今まで性的対象として見なされながらも見下され続けていた芸能人に対して「こうなりたい!」という欲望が発生したのだ。「ジーンズ」や「マッシュ」は上記の彼らがしていたことで流行ったファッションだ。日本も程なくして後を追い、石原裕次郎などが喝采を浴びるようになった。ここでハレとケの境界の解体が始まる。

ここまでは今まで(2010年頃まで)のリアルであった。問題はここからである。2010年以降新たなリアルが立ちのぼって来たのだ。それはSNSの登場、もっと言えばSNSでマネタイズが可能となったYouTuber登場以降に現れた。SNSの登場は『インフルエンサー』を生み出し、フォロワーの多寡がそのままある種の人間の価値を表すようになったのだ。今や人間を50人集めればうち一人は何らかのインフルエンサーであると言っても過言では無い。芸能人と我々の境界線はもはやほとんど無いと言っていいほどに融解し、すなわち「商品」として取り扱われる領域が芸能人のみから一般人にまで拡大したのだ。芸能界の浄化と反比例するかのように、我々の芸能人化が進んだのだ。

資本主義の領域が我々にまで迫って来て、我々は芸能人となることを、あるいは売春をすることを強制され始めた。2010年代以降metoo運動が盛り上がり「性的客体化」という言葉が人口に膾炙し始めたのは偶然では無い。何度も言うようだが、芸能界の浄化とは社会の芸能界化であり、我々はハレとケが混在する新たなリアルを生き始めている。今の女子高生はカジュアルに自分の動画をtiktokにあげ手っ取り早い承認を得るようになった(そうした若者の中からインフルエンサーが現れている)。男性もこの波からは逃れられない。不細工な男性は「チー牛」と呼称され、存在しているだけで写真を撮られてSNSに投稿されるような存在となり果てた。不細工な男女もある種の逆売春婦になる可能性を背負わされている。そしてその投稿がまたSNSによる資本主義支配を強化するのだ。無限の客体化/芸能人化/売春婦化から私たちは逃れられない。

syamu氏は容姿に優れず知的グレーである『身の程』を弁えず表現者を志したが故に、逆売春婦として永遠にネットのおもちゃとなった

私たちはだんだん見られることを意識するようになり、社会はより万人の万人に対する(視線)闘争とでも言うべきものとなった。「大人」という文化は解体されたのか、それとも芸能界の論理がビルトインされ拡大強化されたのかはまだ分からない。しかし、私たちが芸能界という「蠱毒」に詰められた悪徳が拡散する中で「大人」そのものも変質する只中にいることは否定できない。保守的な筆者はこれに同意するものではないが、一度動き出した流れを止めることは不可能だ。また、こうした構造の解体は、芸能界における性的搾取の是正などプラスの影響ももたらしている。私たちは、新しいリアルに対応した新しい生き方を模索しなければならない。

にゃるらが叩かれる理由 華原朋美

 にゃるらが叩かれる理由は一つしかない。彼がオタク村の出身だからだ。彼はいわゆる倫理界隈というところの(近傍の)出身だ。知らない読者のために説明すると、「メンヘラ神」、「はるしにゃん」、「ほわせぷ」など当時有名だったツイッタラーがいた界隈で、メンヘラ系のインテリたちが面白いツイートをしたり、詩を書いたりしていた。彼の作る作品や文章は明らかにそうした界隈の空気感の影響下にある。また彼は、「大司教」という界隈のフィクサーぶったオッサンの運営するシェアハウスに入居していた時期があり、そこを足掛かりにサクセスしていったという経緯もある。

 にゃるらが叩かれる直接的な(アンチが供述する)龍はほとんど2点に集約される。一つは、「メンヘラ女を過剰に戯画化して消費するコンテンツを作っており、そうした創作の態度は非常に不誠実である」というもので、もう一つは、「本人には大した才能も実力もないのに女(月ノ美兎)を食いまくったりFF比調整しまくったりして成り上がっており、大変不愉快である」というものだ。

 これらの主張の是非について筆者がなにか述べる気はない。問題は、これらが明らかにアンチの
嫉妬であると言うことだ。特に二つ目の、某Vtuberを性行為兼キュレーションしたことに対する不愉快さはあからさまな嫉妬である。一つ目の主張も、おそらく批判者はコンテンツ化をほんとうに道義的に憂いているわけではなく、自分がやりたかったことの先を越された悔しさの否認として出てきたものだろう。にゃるらのコンテンツは、彼自身が新しいものを作ると言うよりは、当時倫理界隈及びその周辺のインターネットに漂っていた空気感をマネタイズできる形で出力したものだと言える。矮小化した物言いをするなら、にゃるらのやっていることはメンヘラ神やはるしにゃんの商業的な焼き直しにすぎない。要は、答えはそこに転がっていて、それをコンテンツ化できる実力さえあれば、当時そこにいた全員がにゃるらになれた可能性があるのだ。

 ここまで見ればにゃるらのアンチが彼の何に怒っているかが見えてくるだろう。「自分と同じ倫理界隈周辺をウロチョロしてたオタククンの癖に、Vtuberとセックスをしたり自分がやりたかったメンヘラマネタイズを上手くやったりしていて、許せない❗️」ということだ。中でも彼らの最も許せないのが、にゃるらが元々自分たちと似たような界隈でくすぶっていたオタクであることだ。当たり前の話だが、嫉妬とは自分と同レベル(と思っている)相手にしか生じない。キムタクに嫉妬する男はいないだろう。テレビという薄板一枚挟んで、自分と生涯関わることのない最高に良い男がいるのだ。嫉妬などするはずがない。話は変わるが、筆者の母親は今でいう港区女子みたいな女で、若い頃は渋谷で芸能人と毎晩遊んでいたらしい。その母は事あるごとに、「自分は華原朋美より可愛い」などと宣う。母の名誉のために言っておくと、客観的に見て母親が美人な方であるのは事実だ。しかし、華原朋美やその他女優歌手のように自分の容姿を売り物にできるほどかと問われると、100%でノーである。華原朋美の話が食卓に登るたびに母親はすこしばかりの妬みの表情を浮かべて自分がいかに美人かをぶっていたものだが、それは母が芸能人を身近に感じるような特殊な環境に身を置いていた経験によるものだろう。環境の共有は不可避的に、自分より優れた人間に対する嫉妬を惹起させる。「自分と違う優れた人間」だと思っていた成功者が下界に降りて来ると、「自分と同じ釜の飯を食ったくせに運良く成功した奴」になってしまうのだ。筆者の母親は華原朋美に嫉妬し、オタク達はにゃるらに嫉妬する。そしてその嫉妬心に対する防衛機制が「華原朋美より私は可愛い👯‍♀️」や、「にゃるらのやっていることは道義的に許されない😤」をもたらすのだ。

 繰り返しになるが、にゃるらアンチのオタクは心のどこかで彼を自分と同レベルの人間だと思っており、その彼が成功を貪っていることに醜い嫉妬心を抱いてしまっていることを認めなければならない。筆者は正直なところここまで書いておいて彼のコンテンツにそこまで詳しくないので、それらコンテンツが本当に素晴らしいのかどうかは分からない。しかし、結果論としてにゃるらになれたのはにゃるらだけで、他のオタクがくすぶった無職のままなのは紛れもない事実である。この現実を認め、克己することでしかにゃるらに勝つ方法はないだろう。

歩い

同じモチーフばかり繰り返して全てが摩耗していく
すり切れた想い出に戻ってくるたびに、だんだんほんとうになっていくような気がしている(気がする)
馬鹿はもう失望を囲えないことに気がついた
十字路のまん中に立っている

さようならはもう言えない
賢すぎて終わりに気がつかなかった森の賢者
彼の家を囲うのは兵隊の群れ、鼠の一匹も逃げ出さぬよう張り詰めているから、逃げ出すことはもうできなかった
捨てられなかったからいけなかったね

あしたの朝に芽吹くのは、
振り返るほどに鮮明に、美しくなっていく気がしている(気がする)
僕たちはいま分たれた、それはほんとうは十字路なんかでは無くて
行き止まりの崖から一歩踏み出した

天竜川ナコン 共感の構造

天竜川ナコンの『現実チャンネル』に、最近ハマっている。


 彼の代表作は、おそらくこの動画だ。「現実」というゲームの実況プレイをするという建てつけを取っており、「実況」動画が終わったあとに彼お手製のラップが披露される。実況パートでは、「現実」に対する諦念やつらさが連ねられ、それでも少しずつ進んでいくことだけでしか救いはないんだ、というアンサーが示される。ここまでは有りがちな自己啓発と変わらないが、彼は一歩進んで、「少しずつ進んでいくことが既に救いなんだ」というテーゼをしめす。これも馬鹿みたいなまやかしだが、彼自身の実体験や、「ゲーム実況」という没入感を高める形式が、主張に説得力をもたらす。

 ここで「現実」というゲームとあるが、彼は決して、「現実」を戯画化した虚構として冷めた視点から描いているわけではない。むしろ、ゲーム「実況」という構造を取ることで、視聴者の没入感や共感性を高めている。分かりやすく言い換えると、「現実」なんて所詮ゲームなんだから生きてる意味なんてないさ、ということではなく、「現実」がゲームであるからこそ寧ろ、ちょっとずつ、俺と一緒に、肩肘張らずに生きてこうぜ、と呼びかけているわけだ。

 共感の構造はゲーム実況という形式だけに留まらない。彼は語尾に「ワロタ」「ですよねえ」と言う。これは自分だけの「ワロタ」でも、「ですよねえ」でもない。上の動画で特徴付けられるのは、主語が常に非明示であることだ。一部の叙事を除けば、「私」や「あなた」のような主語が登場しないまま動画が進む。これがどう言った効果をもたらすかと言うと、浮き彫りになる「私たち」の存在だろう。上の「ですよねえ」は内心の吐露であると同時にこれを見ている視聴者への呼びかけであり、だからこそ「私たち」の性質を持つ。また、別の動画では、「てめえ」という主語からやはりメッセージを呼びかけている。ここでの「てめえ」は、自分とも、自分がもう一人の自分や視聴者に呼びかけているとも取れるが、ここで見えてくるのもやはり全てを包括した「私たち」だ。ヒップホップにおけるエンパワメントと近いものがあり、こうした文脈上の発想と言えるだろう。


 題材の取り上げ方にもこうした傾向が見え隠れする。切らしていた洗剤を買ったり、無駄だとわかっていても何かしたり……

おしっこ漏れそうになっても あえて我慢して
買い物してみたハタチの日
あまりの試練な感じに価値観揺さぶられ
人格変容 今に至る

心の備忘録 / 天竜川ナコン

 筆者はこのリリックに大変感動したのだが、ここにも共感の構造が表れている。小便が漏れそうという卑近かつ汚らしい題材をあげて、それを我慢して買い物に出かけると言うこれまた卑近で、尚且つ意味の分かるような分からないようなセンチメンタリズムに駆動されたような行為をする。そしてそれによってちっぽけな価値観が変容して今に繋がっているというたてつけだ。極めて小さな事で極めて小さな変化があり、それを後生大事にリリックに書き起こすという構造を取っている。
 これは一見すると意味がわからないが、上記の文脈の中で捉えると確信犯的だろう。このリリックが示すのは、「私たち」は大した存在ではないが、それでも私たちには私たちが大切とするものがある、という忘れられがちな主張だ。そして、これを主張として述べるのではなく、一見意味不明瞭なエピソードトークに忍ばせる事で、押し付けがましくない共感を提供している。ここにも彼の技前が表れている。

 構造の話はここまでにして、ここからは彼がどのような共感を提供しているかということについて考える。彼の与える共感は、「俺だって何者にもなれない惨めなパンピーだけど生きていこうな!」という風な一言に集約されるかもしれない。筆者は彼の動画を初めて見た時、ゼロ年代邦ロックを思い出した。BUMP OF CHICKEN(直訳:弱者の一撃)や、RADWIMPS(直訳:かっこいい弱虫)が若者のカリスマとして君臨していた2000年代は、『何者にもなれない弱い自分』がある種時代のテーマとなっており、68年革命以降的な差異化ゲームと経済的なシュリンクによる若者の自意識の変化とがせめぎ合っていた時代だった。いわゆる『セカイ系』が流行っていたのもこの頃だ。
 彼の動画もそうした例からは多分に漏れていない。彼は動画から知る限り1991年産まれの米津玄師とほぼ同世代であり、米津がBUMP OF CHICKENを始めとするゼロ年代ロキノンロックの系譜から現れたのと同じように、そうしたロックから影響を受けてきたであろうことが推察される。仮に受けていないとしても、そうした時代の「心性」の中にあったことは疑いはないだろう。今や、『終わりなき日常』は終わった。「何者かになりたい」差異化ゲームの領域は全く消え去り、全てが「かわいくてごめん」な序列化ゲームに還元されてしまった。最早藤原基央が、米津玄師が、そして天竜川ナコンが提起した悩みは意味を成さない。かつてあれ程求められた個性は、単なる発達障害というラベリングとともに排斥対象となった。筆者は、だからこそのノスタルジーを彼に覚える。

 何者にもなれない自分に一丁前に悩み、もがき、それでも進んで行こうとする姿勢は、もはやそうした悩み自体が顧みられなくなった今にあってようやく真の意味で完成したのだろう。筆者や彼が思うような悩みは骨董品のように忘却されるのかもしれない。これからの「オタク」や「変人」はそうした悩みすら持てず「チー牛」、「発達障害」として取り扱われ、社会の隅に追いやられるのかもしれない。僕たちの悩みに意味なんて、最初から無かったのかもしれない。それでも、確かに何者かになろうともがいた記憶は自分だけの、かけがえのない大切なものですよねえ!

ピノキオピーを聴いて「くらう」若者たち

こんなツイートを見た。

 ピノキオピーを聴いて「くらう」人間がいる。より正確に言えば、ピノキオピー的な世界観に熱狂している人たち、と言えるかもしれない。彼らのそれは、単にカゲロウプロジェクトやヨルシカの「世界観」に没入していることを意味しない。そういった最近流行りのストーリーテリングな「世界観」ではなく、より原義に近い意味としての世界観だ。

せかい‐かん【世界観】‥クワン (Weltanschauung ドイツ)世界を全体として意味づける見方。人生観よりも包括的。単なる知的把握にとどまらず、より直接的な情意的評価を含む。楽天主義・厭世主義・宿命論・宗教的世界観・道徳的世界観などの立場がある。

広辞苑

 少しわかりにくいので簡単に言い表すならば、ピノキオピーの見ているモノの見方、世界の見方に共感を覚えている人たちのことだ。彼らは一様に、彼の厭世的で批評的なリリックの数々を「パンチライン」として褒めそやし、自分たちの代弁者として崇め奉る。上のツイートもそうだし、『神っぽいな』が流行ったときも腐るほど見た。

愛のネタバレ 「別れ」っぽいな

人生のネタバレ 「死ぬ」っぽいな

なにそれ意味深でかっこいいじゃん…

それっぽい単語集で踊ってんだ 失敬

神っぽいな/ピノキオピー

 彼のリリックは基本的に厭世、冷笑、人文学的素養の三本柱で成り立っており、それらが彼の魅力となっている。上の歌詞を見れば分かりやすいだろう。最初に彼は、愛や人生に必ずつきものの終わりを「ネタバレ」と表現する。これは極めて屈折した厭世である。これまでのポップソングでは、避けがたい別れを如何にして美しく描くか、そうでないのならば如何に女々しく別れを拒否するかの2つだった。

左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる

僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも

さよならなんて云えないよ/小沢健二

「ねえ、もう一度だけ」


を何回もやろう、そういう運命をしよう


愛を伝えそびれた


でもたしかに恋をしていた


恋をしていた

恋人ごっこ/マカロニえんぴつ

 しかし、ピノキオピーの世界観にはそういったセンチメンタリズムは一切ない。そこにあるのはただ空漠とした現実である。終わりに対する余りにも冷め切った視線が「ネタバレ」という余りにもチープな言葉で表現されている。こういった暴露的な言葉を、僕たちはさまざまな場所で見聞きしているだろう。いわく「親ガチャ」、「チー牛」、「弱者男性」、「性的搾取」。こういった言葉は、今まで当たり前のように存在しある種のセンチメンタリズムを持って語られてすらいた「運命」や「オタク」、「恋愛」という言葉の空虚さや暴力性を、チープで汚らしい言葉によってことさら暴き立て、相対化しようとする試みと言える。更に上で引用した、「壮大な内輪ノリを歴史と呼ぶ」もそうだ。学歴、教養文化、所属コミュニティなどは言ってしまえば全て内輪ノリであり、その積み重ねが歴史ならば、歴史が「内輪ノリ」であるのも当然だ。「歴史」という言葉が孕んでいたペーソスやセンチメンタリズム、美しさを全て引っ剥がし、「同じことの繰り返し」で「結末が定まっている」内輪ノリをなぜ続けるんだ?という空虚な問いを投げかける。ピノキオピーの世界観は単に厭世的であるだけではない。全てを反復と終わりの結末が定まった虚(うつろ)としたうえで、その内実の醜さを、安っぽい単純化によってことさら暴き立てようとする屈折を孕んでいるのだ。そしてそれを、現代という時代にあって確信犯的に行なっているのが、彼が支持を受ける理由の一つ目なのだろう。

 愛と人生の「ネタバレ」を語ったそのつぎ、彼はそうしたフレーズを「なにそれ意味深でかっこいいじゃん…」という冷笑的な呼応によって中和する。これには二つの効果がある。一つは当然ながら、厭世が行きすぎてある種厨二病的にすらなりかけていた世界観を「引き戻す」効果。自己言及によって「痛さ」を薄めようということだ。そしてもう一つには、無限の注釈の入れ子構造に聴き手を押し込め、世界観に「厚み」を持たせる効果だ。よくよく考えると、自己言及的な歌詞をわざわざ(自覚的に)書き入れて、それを発表するということ自体、自己言及によって発言の責任を一定程度放棄しようとするような「構造」そのものに対する皮肉を含んでいると言える。一段階目の屈折した厭世、それを自己言及的に冷笑する二段階目の屈折、そしてさらにそうした構造を曲という形で折り込んだ三段階目の屈折、といった具合だ。冷笑的な視線が難しいのは、冷笑する主体そのものが滑稽であり、冷笑の対象となり得ることだ。半端な冷笑は最終的に発言者にその責が帰着する点で、世界観に深みを与えるどころか極めてチープな代物と成りかねない。これにはいくつかの解決策があり、例えば発言主体の権威性を高めるのが手っ取り早いだろうが、ピノキオピーの場合は「ボーカロイド」に歌わせることでそれを為した。ボーカロイドは機械である以上、世界観を「歌う」ことはあっても世界観を「唄う」ことはなく、よって責任も取り得ない。ボーカロイドという中心の空虚に仮託することで、責任主体を見失った批評は宙に浮いて、無限の入れ子構造の中に取り込まれる。無頼なようでいて極めて平凡な日本人的心性にも感じられるが、それが彼の世界観に宿る「厚み」の根源であり、理由の二つ目と言える。

 そしてそれらは、ある程度の人文的素養に裏打ちされる。

ポストトゥルースの甘いディープキス エロく歪んでるラブアンドピース

自己中の光線銃 乱射する 強者のナンセンス

オートクチュールで作る 殺しのライセンス

分断を生んじゃった椅子取りゲーム 無痛分娩で授かるベイブ

壮大な内輪ノリを歴史と呼ぶ

ノンブレス・オブリージュ/ピノキオピー

 ポストトゥルースはご存知のとおりトランプ以降官制的な「真実」が崩壊したさまのことを指すが、これを引用しながら歴史そのものの空虚さに結びつけるリリックの構造がニクい。社会においてマトモな地位を占めるための狂騒を「椅子取りゲーム」と表現するのは、andymoriの引用と考えられる。おそらくトランプ当選やブレグジットを指すであろう「分断」を、名曲の歌詞からおしゃれに引用しながらさらりと寓喩で流す。歌詞に詰まった情報量の多さは作詞者の「頭のよさ」を示唆し、神秘性を高める材料となりうる。より詳しくいうならば、自分の知的教養をなんでもないかのように披露することで、元ネタが分からない人には「神秘性」を、分かる人には「共感」を提供することができるのだ。こうした意図的なオマージュや引用は、若く挑発的なミュージシャンたちによってフリッパーズギターの時代から風物詩のように見られた風景だが、彼もご多分の例に漏れない。これが、三つ目の理由になる。

 ピノキオピーはこれらの3つをある程度戦略的にやっており、彼の持つ特異な才能(世界に対して極限まで冷めた目線で見る力)も相まって、一部若者のカリスマとしての地位を確立した。彼のリリックは時代精神そのものと言っても過言ではなく、その言葉ひとつひとつが2020年代を象徴している。そしてそれに「くらって」しまっている若者たちの精神も、極めて2020年代的なのだろう。かくいう僕も、ピノキオピーはそこそこ好きである。

スマホ太郎が大好き

信仰告白みたいなものだろうが正直スマホ太郎が大好きだ。アニメ化する前の、確か2015年頃から読んでいた。いまだに2、3年に一回くらいの頻度で読み返す。

スマホ太郎のいいところは、一応いくつかある。文体が平易なわりに構成が意外とちゃんとしている、ストレスフリーなのに意外と物語に起伏があるので長い割にあまり退屈しない、基本的に主人公の一人称視点で進むので、主人公の論理に疑いを持つことがない、ここら辺だろうか。加えて、何よりも減点要素が少ない。主人公の行動原理がオタクの妄想するヤクザという感じでどうしようもないのでたまに苛立ってしまうことはあるが、そのくらいだ。あとは、連載初期当時ネットに蔓延していたネトウヨ的心性のせいなのか、作中世界の中国にあたる国が主人公に半ば滅ぼされたり、荷電粒子砲で消滅させられたりしているのはご愛敬だ。ちなみに「まるで将棋だな」はアニメ版限定のセリフで小説版にはない。

さいきん読み返したときに知ったが、スマホ太郎は中国で死ぬほど人気らしい。違和感を覚えたが、『猿の惑星』が日本で大人気なのと似ている。筆者は『猿の惑星』もスマホ太郎も大好きだ。